2019年の最終日は金剛山へ早朝登山。
夜で霧の中をヘッドライトで照らすと目の前が真っ白です。
夜間登山で霧の中を進むとどう見えるのかご覧ください。
ご注意
ビデオカメラは手持ちなので画面がよく揺れます。
千早城跡から石段を下る所で2回滑って転んでますので画面が大きく揺れます。
2019年の最終日は金剛山へ早朝登山。
夜で霧の中をヘッドライトで照らすと目の前が真っ白です。
夜間登山で霧の中を進むとどう見えるのかご覧ください。
ご注意
ビデオカメラは手持ちなので画面がよく揺れます。
千早城跡から石段を下る所で2回滑って転んでますので画面が大きく揺れます。
2019年12月後半になっても金剛山では雪化粧が見られませんでしたが、22日の夕方からわずか30分ほどで雪が積もり、ライブカメラから見てもかなりの積雪があることがわかりました。
ということで、今シーズン初の雪化粧を楽しみに金剛山へ早朝登山に出かけました。
はじめは木々に積もった雪が雨のように解け落ちていましたので、傘をさして登ります。
5合目の平坦部でも雪がべちゃべちゃ状態でしたが、7合目を過ぎたあたりからしっかりとした雪に変わり、登るにつれ階段の段差がわかりにくい状態に。
山頂の売店前の広場では15~20cmくらい積もっているでしょうか。
金剛山もクリスマス前になりやっと雪化粧となりました。
新雪なので、早朝登山の先行者の踏み跡を歩く。
売店前のテーブルに積もる雪の高さよ。
これが一晩で積もったんですね。
転法輪寺の照明が雪に反射してまぶしいくらい。
この積雪で、捺印所前では名物のカマクラ作り真っ最中です。
カマクラはかなりの大きさに作れそうなので、このまま新年まで持ちそうかもしれませんね。
金剛山の夜景を楽しみたいけれど、夜の登山道はどんな感じなんだろう?
金剛山山頂の国見城址広場で金剛山の夜景を楽んだ後、千早本道を下山する動画です。
暗闇の登山道がどのようなものかご覧ください。
撮影機材:ソニー HDR-AS300
撮影方法:手持ち(手振れ補正ON)
国見城址へ登頂。
今シーズンの金剛山で雪は終わったと思ってましたが、寒波到来で約5cmの雪化粧となった金剛山へ早朝登山。
午前3時25分 金剛山の国見城址へ登頂。
これらの写真は全部スマホで撮影したものですが、背景の夜景と全面の看板がきれいにブレなく手持ちで撮影できているのだから、スマホのカメラの性能向上は目を見張るものがあります。
国見城址広場全景
カマクラ復活
転法輪寺が設けた街灯で、山頂は明るい。
気温はマイナス2℃
この日は金剛山山頂へ私が一番乗りでしたが、早朝登山を始めた約10年前であれば、この時間にはすでに何人か練成会の人が登ってきていて、仲間で談笑している光景が見られたものでした。
しかし、この日は私が一番乗り。
仕事に忙殺されてなかなか金剛山へ登らなくなてるうちに、早朝登山をされてた人は引退をされたか、日中に登るようになられたのでしょうか。月日が流れていることを感じた日でした。
午前4時ライブカメラに写った後、下山開始。
今回も金剛山へ年越し登山に来ました。
今回も新年を迎える金剛山山頂の雰囲気を楽しめた登山でした。
今回も千早本道を往復します。
まず登り始めてすぐ、千早城跡へ至る道に照明が灯されていて、新年を迎える気分が盛り上がります。
体力があれば、ここを登り千早城跡の様子を撮影したいのですが、今回はパス。
病み上がりのため、1時間45分のスローペースで国見城址広場に到着。
年末の寒波と強風も納まり、穏やかな天候と奇麗な空気で金剛山から見える夜景はとても奇麗でした。
時間は23時30分を過ぎているので、続々と人が集まり始め、山頂も賑わいがでてきました。
このときの気温はマイナス5℃。晴れで風もほとんどなかったとはいえ、寒いことには変わりないので、暖を求めて火の回りに集まります。
テン拍で年越しされる人もいます。 しかし、これだけ明ると寝にくいだろうな。
捺印所はまだ閉まっていますが、シャッターのすき間から光が漏れているので、中は準備万端のようです。
カウントダウン5分前。徐々に人が集まってきました。
平成31年、2019年の幕開けです。
こちらは「金剛山ライブカメラ」からのキャプチャーです。画面右の人はライブカメラに写ってないですね。残念。
新年を迎えると同時に、ユニバーサル・カウントダウン・パーティ2019による打ち上げ花火が上がっていました。
USJの花火も終わる頃、夜景を楽しむ人や記念撮影をする人でこの看板前には人が残っています。
自分も記念撮影。
今までなら後ろ姿までしか公開していませんでしたが、去年NHKのドキュメント72時間に思いっきり登場していましたので、今回から正面の写真を公開。
一応、金剛山の夜景というブログを公開しているからには、背景の夜景をぼかしつつ、看板にピントを合わせて人物は若干ピントを外し、かつ現地より明るめに写すという狙い通りに写せた一枚です。
さて、次の目的地である葛木神社へ向かいます。
一年で年越しのこの時だけ灯篭に灯される光りがとても奇麗です。
葛城神社も光に照らされ美しい佇まいですね。
天法輪寺では祈祷が行われていました。
天法輪寺から宿坊跡を見降ろせば、一晩中火が燃やし続けられるのですが、照明が明るすぎて炎があまり見えないです。
新年と共に開いた捺印所。これから夜道を登って来る練成会会員のため一晩中開いています。今年も大勢の人がやって来ることでしょう。
今回はこれで下山。
ちょっと無理して登って来ましたが、この景色が見られたことが喜びでした。
では、今後も細々と金剛山の夜景情報を発信していきたいと思います。
雪が積もると表情が一変しますが、それが夜間となると昼間とは違った世界となり、それが金剛山の夜景の魅力です。
久しぶりの早朝登山では街の夜景こそ見えませんでしたが、再び雪に覆われた金剛山はすばらしい眺めを見せてくれました。
写真の時間は夕方ではなくて、早朝の午前5時です。
大阪市内から移動と登山を合わせて2時間くらいで、こんな雪景色の場所に立つことができるので、金剛山は身近ですが魅力のある山ですよね。
大阪から夜に金剛山を見ると山頂に光の点が見えますが、その光がここの国見灯から発せられた光なんです。 この街灯のおかげで、国見城址広場は夜間でも明るいので、ナイトハイクの練習にはもってこいだと思います。
反対を見ると山側こそ暗いですが、広場自体が明るのが分かりますね。
また、ここの金剛桜ですが、雪化粧した姿は違った魅力があります。
場所を売店前の広場に移動します。
この場所は以前から街灯が灯っていたのですが、昨年、転法輪寺がLED照明を増設し、かなりの明るさで照らされるようになったため、街中よりも明るくなっています。
この日の気温は-8℃。
寒い。
雪が積もった日に来ると、白銀の世界でまさに別世界です。
でも、少し離れるともう真っ暗で、ここが山の中であることが分かります。
午前6時のライブカメラに映る人々。
すっかり金剛山の名物になっていますね。
午前6時に開いた捺印所。
寒い朝から真っ暗な登山道を登ってきた人達ですが、今日は路面の凍結を警戒してか、人は少なめでした。
本道から登ると、夜間でも比較的安全なので、雪化粧した夜の金剛山を体験してみませんか。
水越峠から金剛山へダイヤモンドトレールで歩みを進めて約20分で越口と言う場所に到着しますが、この場所が金剛山を水源とし、河内(大阪)側へ流れていた水を大和(奈良)側に流路を変え、さらには現在の金剛山山頂の所属が奈良県になった功労者である、上田角之進についての記述がありました。
国立歴史民俗博物館研究報告第141集の581-590の、関沢まゆみ著「死者の火 儀礼伝承の潜伏と顕在と」という記事があり、その中の「2 郷墓と五輪」に、近代以降になって造立された五輪塔の例として上田角之進伝説の記事を見つけましたので紹介します。
大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ
※本文は上記サイトからPDFでダウンロードできます。

以下、本文抜粋
大和吐田郷と上田角之進伝説
現在でも奈良県下の郷墓地帯には新しく近代以降になって造立された五輪塔の例がみられる。たとえば、奈良県御所市名柄(旧吐田郷)の日蓮宗本久寺境内にある上田角之進の墓塔である。これについては別稿(7)で詳論しているところであるが、その一部を紹介すれば以下のとおりである。
吐田郷地域の水越川水系にはその上流から、関屋、増、名柄、豊田、宮戸、森脇の六大字がいわゆる水郷を形成している。水越川の水源は金剛山にあるが、この水をめぐって歴史的に大和側と河内側との間ではげしい水論が繰り返されてきた。
吐田郷ではこの水越川の開拓者として上田角之進(元和三(一六一七)年三月一八日没)という伝説上の人物の名が伝えられている。
上田角之進は大和側の水不足を解消するために、もともと河内側に流れていた金剛山の水を大和側へ流れるように上流でおおがかりな開削工事を行なった人物であり、元禄一四(一七〇一)年の河内側との水論における大和側の勝因は水越川の水がその工事によって事実上、大和へと流れ落ちていた事実が検使奉行に認定されたからであった。
そこで、水越川の開削者として上田角之進の名前がその功績とともに語り伝えられてきているのである。
それ以降五〇年ごとに角之進の報恩大法要が営まれ、文化一三(一八一六)年に二百回忌、安政四(一八五七)年に二百五十回忌が営まれ、「南無妙法蓮華経 為善久菩提 元和三年三月十八日」と書かれた供養塔が建てられた。
これは五輪塔の型式ではなかったが「安政四丁巳年三月十八日 戴百五拾回忌為菩提再建立」と記されており、安政四(一八五七)年に建立されたものであることがわかる。
しかしその後、明治一四(一八八一)年三月に、吐田郷中の名前で本久寺本堂前に建立された角之進の供養塔は五輪塔の型式であった。そしてその五輪塔とは人びとにとってこの近隣の郷墓である極楽寺墓や九品寺墓などで多く見られる中世の記念碑的な意味をもっている伝統的かつ歴史回顧的な墓塔型式なのである。
本稿では、この日本の五輪塔のように近世前期で一度は喪失した型式が近代以降に新たに復活する事例や、また儀礼として一度は喪失したものがその後に復活する場合のその理由の追跡等に向けて、墓地と死者表象という問題からフランス中部に分布する「死者の火」の塔の調査事例の紹介を行なっておくこととする。