日曜の登山は太尾塞で下山

日曜日の登山は、水越峠からダイトレを金剛山方向に登り、越口の周辺を調査してから太尾塞跡まで登り、ここで折り返した。

ここまで来たら山頂まで行ってもよさそうだけれど、この日はスタート時間が遅かったのと、夕方までには帰宅したかったので、予定通り、これで下山しました。

次の日曜日も越口周辺で調査を予定しています。

水越峠 水論の現在

水争いをめぐる水越峠の国境画定紛争は、元禄14年(1701)に京都奉行所が大和側勝訴の裁定を下し、大和と河内の国境が画定されてそれが現在の府県境へとなっています。

※下記の図では緑色の線で図示

金剛山 図示

越口から北(葛城山方向)を見た写真に国境線(現在は府県境)を赤い線でを示してみると、京都奉行所は実に絶妙な位置に国境線を確定していることがわかりますね。

では、河内側を流れている水をどのようにして大和側に流しているのか、見てみましょう。

道路の右側は急峻な谷筋がはじまっているので、写真左側にある川の流れを右側へ付け替えることが可能な位置にあります。

次に反対(南を向いた方向)から見た写真に、国境線(現在は府県境)を赤い線で示します。

また大阪側と奈良側への川筋を水色の線で示しました。

これを見ると、道路が分水嶺となっていることがわかります。

なを、この道路部分は、近畿の登山 :近畿登山研究会編,ヤナギ会, 大正13の記事よると、大正時代にこの越口で大崩落があり、川の流れが変わったというような記述がありますので、崩落によって元の谷筋が埋まって出来たのがこの道路なのかもしれません。

最近(大正13年の3月)葛城より水越峠へ下り此事をしつて、私は非常に残念に思つた。流れのなくなつたのは極最近のことらしく、葛城より下る途中、流れの□上手に大崩壊があつたが、其為か或ひは河内へ流れる様にするめに故意にしたものか、流れを埋めたらしい跡を見ると後者らしく思はれる。今、葛城の水は河内へ流れてゐる。そのため青崩路の水量は甚だしく増した様である。

次に、上記写真からさらに南(写真の奥)に進むと、大阪側と奈良側へ水の流れが分けられる地点に来ます。

地理院地図(電子国土web)や現地を見ると、この付近の地形が絶妙で、大和の人々が地形を切り崩して河内へ流れる水を大和へ流そうとする発想に至るのも理解できます。

現在の奈良県(大和國)へ流れる流路は、この付近の大崩落後、新たに作られたものだと思いますが、地形の勾配をうまく利用していることがわかります。

取水口から取り込まれた水は、道路下の暗渠を流れて道路の右脇(東側)をしばらく天井川の流れとなって、その後小さな滝となって祈りの滝へ向かう谷筋へ流れ落ちていきます。

越口 図示

 

 

 

川筋から道路を見ると、奈良県(大和國)側へ分流する取水口が空いているのが見えます。

この開口部へ水が流れ込むか流れ込まないかで水がたどる道が大きく変わると思うと、感慨深いものがあります。

しかし、越口から分流の理由でコメントをいただいた、おの@あびこ様の言葉を借りると、

さらに流下していけば、結局のところどちらの川もやがては大和川に合流し、あびこの南端を流れて大阪湾に注ぐわけです。

となるわけで、太平洋側と日本海側に分かれる分水嶺ほどの雄大さはありませんね。

上記写真から右を向くと、川の流れる水が大阪側と奈良側へ分けられています。

このように、水の流れを河内國(大阪側)か大和國(奈良側)に流すのかを決定する場所が大和國側に属したことにより、元禄期の水紛争が大和側の勝訴となったわけです。

なを、この日は奈良県側へ水が流れないように、石を積み上げて堰き止められていました。これが悪戯なのか、故意なのか、協定によるものなのかは不明です。

水越峠 水紛争後の河内側について

京都奉行所に出訴された水争いをめぐる水越峠の国境画定紛争は、元禄14年(1701)に河内側が敗訴するという結果に終わったため、その後、金剛山山麓の河内側の水利は、井路・溜池・井戸など灌漑施設の整備を進め、水不足に対応してきた。

これについて【堀内義隆 大阪府東条川流域の灌漑水利の研究】から、河内側の水越川流域について見てみる。(引用して編集しています)

水越川流域は河川の侵食がすすみ、河岸低地と中央平野面とは、北部の南別井部落で約10m内外、中央部の神山部落附近で6~7mの急崖をなしている。このため中央平野面は台地をなし、これを河南台地と仮称する。この台地は砂礫が多く、水田の保水力は非常に悪く,反当用水量も低地部にくらべ1.5倍も要するといわれている。

東条川からの用水確保のため、引水堰は競って山麓地帯に設けられていて、山麓地方に集約された井堰より多数の長い引水路が台地面に設置されているが、用水は上流部から引水されるため、下流に向うに従って水量は減少し,漉末一帯は古くからの旱損場であった。

河川灌漑は山間部の青崩で約100%,山麓の中村部落で38%,中流の白木部落で41%,下流の石川村で34%,溜池灌漑は山地部では平均10%内外,中下流では24~36%となっている。

そのため中流域以下では用水不足のため溜池を併用しているが、夏季用水期間中の貯水は殊に困難で、ほとんど繰り返し利用は不可能な状況であった。

しかし、金剛山脈の西斜面一帯は6~9月の降雨量は740mm内外で、奈良盆地よりはるかに多量であるにもかかわらず、中下流一帯が用水の不足するのは、前述の水越川上流問題と、千早川筋においても、上流の東阪や上東阪部落附近で、堀越井路、花折井路が取水して反対斜面の佐備川流域に引水していることが大きい。このような流域変更は社会的歴史的要因によるもので,これが台地一帯の用水不足の根本原因である。

用水が不足する要因として、土地の保水力、河川水量の減少、流域変更が考えられるが、さらに【山極二郎 大阪府下の灌漑農業 上】ではこう述べられている。

雨量の少いと云ふ事も相對的の事で、之れ丈の水田を有する地方としては水不足であるの義で決して絶對量が少いものではない。

大阪平野の降水量は約千四百粍で最小は堺市附近の千三百粍弱で、山地に入れば千五六百と増してくるのみならず降水は重に植物の生育期にあるのであるから映して少いとは云へぬ、一般に瀬戸内地方は雨少しとの前提から直に當府も雨不足の地域に入れて結論をいそぐ事より此誤解が生じたのである。

即ち世界的に比較して見れば千粍が多少の境をつけるものと考へるから、之れを超ゆる事四百粍であるから多雨の地として見るべく西隊の多雨地と考へられてある倫敦巴里などに比べると約二倍以上の降水量である。

(中略)

故に府下の權漑農業は降水量から見て水不足とするも砂漠又は草地地方に行はれるものと全然異るものである事に注意しなければならぬ。第二の原因は諸川の流域が小で、即ち集水面積が小である爲に、其下流にある水田を充分にうるほす事の出來ないと云ふ事にある。

まとめ。

水越川上流域は大和側に属することになったために水越川の水量が減り、下流域の水不足に悩まされることになるが、降水量が絶対的に少ない地域ではないため、水不足の原因として、耕作面積の広がりが河川で用水を補える量を越えているため、水不足が発生するということと思われる。

展望塔と国見灯

金剛山南東に位置する湧出岳には電波塔が立ち並び、その側にはこじんまりとした鉄塔が建っている。華奢な鋼材で組み合わされた鉄塔の先端には電灯が取り付けられていて、その光は、夜の登山道(文殊尾根、水越峠からダイトレルート)を登っていると、暗闇の空に北極星のように輝き、山頂への進路を指し示してくれるありがたい光でもある。

この設備は、金剛山展望塔保存会が管理しているのだが、練成会のような組織だと思っていたら、金剛山の周囲にある市町村が組織したものらしい。

金剛山展望塔保存会の会合の様子が、千早赤阪村の 村長の日記に掲載されている。

8月24日(火)

金剛山展望塔保存会(くすのきホール)

昭和3年、御大典記念として、奈良県南葛城郡、奈良県宇智郡、大阪府南河内郡、3郡の教育会が中心となり、金剛山表忠塔建設会が結成され、金剛山頂に大楠公をしのぶ表忠塔を建設し、500燭光のライトを点灯し、五条市で世話をしていただいた。
80年経った今でも、会が続いており、遠くから金剛山を見るとき頂上に光るライトは、この会が灯しているライトです。

金剛山展望塔保存会メンバー
奈良県:五条市・御所市 大阪府:富田林市・河内長野市・羽曳野市・河南町・太子町・千早赤阪村。

会長の五条市長の話

古くから続いている点灯施設だが、この資料の写真を見ると古くなっている。 いまはLEDのいいのが出ている、しかも電力の消費も少ない、この際、時期を見て、LEDを使ったどこから見ても金剛山頂と分かる点灯施設を、作ってはどうか。

市町村が組織しているものなので、予算書の支出欄には、金剛山展望塔保存会負担金 1万5千円とある。

大阪狭山市

富田林市

この負担金の額は、市町村の規模に比例しているのか、または金剛山により近い市町村が多く負担するのか興味のあるところだが、数字が判明した大阪狭山市と富田林市の負担金額はいずれも1万5千円であったので、その他の市町村も一律の金額であると思われる。

この金剛山展望塔保存協会は、上記、千早赤阪村村長の日記によれば、奈良県南葛城郡、奈良県宇智郡、大阪府南河内郡で構成されているとあるが、ここに平成の市町村合併の影響があったことが判明した。

南河内郡に属していた美原町が堺市と合併したのだが、堺市は金剛山展望塔保存協会には属していないため、美原町が堺市へ合併するにあたり、金剛山展望塔保存協会を脱退することとなった。

平成の市町村合併は奈良県でもあり、葛城市が誕生しているが、金剛山展望塔保存協会の構成に大きな変化があったことが予想される。美原町の脱退により、協会は、年1万5千円の減収となったのだが、葛城市の誕生で負担金の額がどうなったのか興味のあるところである。

なを、金剛山記によると、国見城址にある国見灯も金剛山展望塔保存会所有とある。

展望塔にある光と国見城址にある光で、金剛山の周囲の相当広い範囲を照らしていることは、楠公表忠塔設置の意味を考えると納得である。

以下、金剛山記から。

金剛山展望塔保存会(昭和36年)昭和3年御第典記念事業として、地元奈良県南葛城郡と宇智群及び大阪府南河内郡の3郡教育会が一丸となって楠公表忠塔を建設され、その塔の先端に初めて電灯を輝かせて大楠公を偲ぶことところが、大東亜戦争以来消火されていたのを遺憾とし、昭和36年関係市町村長を歴訪したところ、全員賛成を得たので本会を結成し、会長に大阪府南河内府民センター所長を、副会長には奈良県御所市長と五条市長を仰ぎ、関係市町村長並びに議長と葛城神社宮司を理事(一部常任)として発足し、尖端に400燭光【注釈 1燭光(しょっこう)はローソク1本分の光度をいう。】の蛍光灯を輝かしめ、会の名称も金剛山展望塔保存会と改称すると共に、国見城址に国見灯をも増設した。爾来、同会の所有として維持され今日にいたっている。

代表的な登山道?

金剛山記には、登山道について代表的な5コースを紹介していますが、千早コースを除いて長いコースばかりを紹介しています。千早本道は当然としても、他の4ルートについては、昭和63年4月に編纂された当時には、ここを通って登る人が大勢いたのか不思議なところです。

金剛山記より

国境にまたがるスケールの大きな山だけに奈良県側、大阪府側にと登路は多く、ざっと数えても30コースはあるといわれる、ここではそのうち代表的な5コースについて、泉州山岳会名誉会長の仲西政一郎氏の文章を借りて紹介することにする。(第五-四図参照)【写真】

1, 千早コース (所要時間1時間35分)

2, 名柄コース (所要時間3時間5分)

3, 水分コース (所要時間3時間10分)

4, 髙天コース (所要時間2時間45分)

5, 北宇智コース (所要時間2時間55分)

水論による人的往来の制限

一時、金剛山の麓である奈良県の御所市に住んでいたことがあるのですが、そのとき、住民の行動圏について、葛城山から金剛山にかけての山を超えて大阪に行くという動きが殆ど無く、主に大和高田市や橿原市の方向へ向かう頻度が多いように感じていました。

水越峠があるといっても、水越トンネルが完成する以前は、曲がりくねった細い道路での峠越えになるため、自然とこの地域での主要都市である、大和高田市や橿原市に人々が集まるのだろうという思いでいたのですが、越川をめぐる水争いの歴史を知ると、この事件の影響が、現代人の精神の奥深くに受け継がれているのかもしれませんね。

それを裏付けるような記述が金剛山記に見られます。

金剛山記より

第3-9図(写真)は、「千早赤阪村誌」により、宗旨改帳簿の資料を元に、近背の通婚圏を東阪村と水分村についてまとめたものである。両村落の村外からの婚姻による流入者は、東阪村が37名で、家数に対する割合は約43%、水分村では家数88に対して45軒が他村から嫁や婿を取っており、その割合は約51%に達する。

この両村は、東阪村が五条への街道筋に、水分村が水越峠への街道筋に立地しており、峠交通の発展と行った背景を基に峠を越えて通婚圏が大和側へも広がっていることが予想される。しかし、その結果は、東阪村においてはその街道に沿って通婚圏の広がりをみせるが、水分村のそれは相対的に街道に沿った拡大がみられなかった。すなわち、東阪村においては、現五條市に位置する近内、岡、釜窪からの婚姻流入がみられ、その割合は他村流入者の約18%を占める。また、大和高市郡の曽我、さらには紀州恋濃に至るまで通婚圏の広がりがみられ、その割合は全体の約16%に達する。これに対して水分村の通婚圏は街道に沿って大和側からの流入は稀で、わずか2名に留まっている、これは割合にすると約4%にすぎず、東阪村の場合とは大きな違いがあることがわかる。

このような相違は、東阪村の場合にはなんの障害もなく街道によって結ばれた大和側との通婚が、ごく日常的なものとして行われたのに対し、水分村においては、先述のような水論によって生じた精神的空間構造の存在により、自然な形での結びつきが定着できなかったことによるものではないかと考えられる。

道は、ただ物質が運搬され人々が移動するためにだけ重要なものではない。農村地域における経済的発展は、それまでの自給自足的社会を打破し、人々の交流が盛んになればなるほど地域的なレベルでの結びつきが強化される。そして、それは峠交通といった唯一の交通路を集中的に利用する地域周辺においては、より鮮明に表れるものと考えられる。山地を隔てて相異なった地域に属しつつ同質的な文化が存在することの所以であるが、水越峠においては、水論という別の形での強力なインパクトが作用して、別の意味で対立の中の同一空間とも呼ぶべき精神的空間構造が形成されていたのである。

越口から分流の理由

水越峠からダイトレ(林道)を金剛山に向けて歩いて行くと、越口という所で、大阪側に流れていた沢の水を一部、奈良県側に分流しているのが見えます。

写真:越口 ※昼間の写真がありませんので、夜の写真を掲載します。

この地域の歴史を知らなかった頃は、上手いこと考えたものだと思っていましたが、実はそうではなく、水を巡る争いの現場だったわけですね。

葛城神社社務所史跡金剛山奉賛会発行の「金剛山記」に詳しく書かれていましたので、こちらに抜粋して転載します。なを、本を見ながら手入力しましたので、誤字脱字があればご指摘ください。

以下、本文。

水越川をめぐる水論

当時の大和側の水越川の上流は、今日の水越峠の手前で南側の小河谷にたっし、その小谷の南端が水源であり、底には金剛山頂から直線距離でもなお2kmほど手前であった。その2kmの部分には幅1kmほどの谷が存在し、この谷の降水は水越川の先端をかすめるように北西流し、河内側から伸びる水越川(東条川)へ流下していた。この金剛山頂の約二平方kmの流域は、標高600m以上の部分に広がり、年降水量2,000mmとすると、年間約400万トンの降水量となり、重要な水源ということになる。

そこで先行的にこの水源に注目した大和側の農民は、河内側へ流下する河内側の水越川(東条川)の水を、大和側の水越側の水源地部分へ越口で流入させるように手を加え、灌漑用水を確保し、さらに葛城山の南斜面を水越峠へ流下する万治ヶ滝の小河谷の水も水越峠を越えて大和側へ流入させた。

(中略)田植期に降水不足で水不足になると、この関心は一気に高まることになり、河内側は河内川の水越側(東条川)の水源が大和側へカットされている事実に意義を唱えるようになった。しかも、当時、金剛山から葛城山に至る国境も定かではなかった。

それゆえ。元禄期に入ると、水の流をカットした井手の部分が攻防の的となり、国境改めの検討が始まり、両国の山麓の村々はそれぞれ有利な国境設定案を唱え、高取藩植村家の調停レベルから、京都町奉行の手へ持ち込まれるほどもつれることになった。

(中略)元禄14年(1701)、田植期にはいった5月6日の朝、河内側は万治ヶ滝と越口の水を河内側へ切り落とし、さらに、同月8日には千人余りの河内側の農民が本結の髪に白紙をつけておしかけ、両方の切り口を確保した。これに驚いた大和側の多くの農民が参集したが、河内側を押し返すことはできず、庄屋高橋佐助などを指導者として、京都奉行所へ出訴し、もっぱら中央での調停工作に中心を置く戦術をとった。

舞台は調停の場に持ち込まれ、河内側は金剛山から葛城山へ至る自然的境界こそ国境にすべきことを土絵図を作製主張し、大和側は水越峠を西へ越した鎌取石で、大阪冬の陣の時の大和側が兵糧運搬をチェックしたことから、そこが両国の国境であると主張した。いずれも水源地を取り込むための主張であった。

御検使役が現場検証をし、12月21日に裁許が言い渡された。敗訴を漏れ知った河内側は欠席のままであった。

(中略)この決定は、国境については両者の主張を中間的な形で妥協させ、水越峠を国境としたが、金剛山頂から前述の河内側水越川(東条川)の上流部一体を大和側に属するものとしたほか、水利権については、大和側の旧来の水利の事実を認める形で、大和側の言い分を全面的に認めることになった。こうして、まさに「水越峠」が確定したのである。

結果的には、近世に入って河内側の金剛山六の村々の急速な開田化の動きが、それ以前から行われていた大和側による水越の流水取得に意義を唱えたが、結局、それまでの慣行が承認される形となった。その背景には、そのような慣行をふまえた大和側の実績と、基本的な水不足の認識をふまえた高橋佐助などのすぐれた指導者の存在が大きな役割を果たしたものと思われる。

なを、同じ事態が明治に入って再現しそうになったが、この時もそれまでの慣行が尊重されている。このような水利慣行は明治民法で裏付けられ、今日まで継承されている。これにより、吐田郷を中心とした村々は、比較的安定した水利条件を確保し、この地域では代表的な米作地として知られることになり、大阪の米市場とも結びつき、その中心集落である名柄は水越峠を利用して大阪側へ顔を向ける面も多かった。安定した水利と水越峠が、大阪経済圏をこの地域まで拡大することになったのは皮肉なことであったといえようか。