昔の書物を読む -郷土史の研究- (金剛山)

大正十五年六月一五日発行 南河内郡東部教育會編 郷土史の研究の千早村の章に、金剛山の記述がありました。

郷土史 土史の研究 南河内郡東部教育会 編 大正15_148

 

現在の、金剛山 転法輪寺 本堂前の階段を下りた所に広がる宿坊跡の平地について、2011/03/13に投稿した「昭和30年頃の大宿坊跡」の記事では、葛上村史(現御所市)昭和33年3月当時、すでにこの場所は宿坊の跡地、との内容でしたが、今回参考にした南河内郡東部教育會編 郷土史の研究では、昭和33年からさらに遡り、大正15年6月当時にはすでに宿坊はなく、跡地のみであったことがわかりました。

しかも草茫々という表現なので、大正15年当時は今のように、手入れがそれほどされていなかったのかもしれませんね。

尙此の境内に大宿坊、西室坊、行者坊、實床坊、長床坊、朝原寺、石原寺等の名今尙残り、草茫々たる中に明かに其跡を認むるを得。」

次に金剛山からの展望についての以下のような記述があり、この内容は金剛山の夜景ホームページのトップページに表示している内容に似ている気がします。

郷土史の研究から

河内名所圖會に『遙かに遠望すれば、おしでるや難波の浦、大江阪の萬戸、河分口の泊船、北の方に大物の城、西宮、兵庫、和田岬、一の谷、はいわたる程といふ。 須磨、明石、月落ちかゝる淡路島山、阿波の海、紀の海、茅淳の浦々まで見え渡りて風光著し。

金剛山の夜景ホームページのトップページから

「二上山・葛城山・金剛山山頂から見える夜景は、六甲山や生駒山から見える夜景に劣ることなく素晴らしいもので、 世界有数の大都市である大阪と神戸の夜景を中心として、関西空港から明石海峡大橋を経て淡路島まで光の帯がつながっています。また隣県の奈良や和歌山の夜景に加え、京都や、はるか滋賀県の山々の稜線まで展望出来るすばらしい夜景の数々をご覧下さい。」

まぁ、見える風景が同じなので見たまま書けば似てくるのは当然なのですが、私が金剛山山頂から見た光景に感動した思いと、昔の人の思いが共通であったことに嬉しく思いました。

千早村

古道

細尾峠越、紀伊峠越、千早峠越、高間越等して、何れも千早より紀州及大和に通ずる要路とす。

 

古跡名所

金剛山

河内大和の國境にして、海抜千百餘米の高山なり。

頂上には些かなる葛城神神の假社殿、神職の宅及簡易休憩所あるのみなれども、往昔役の小角の開基に係る、金剛山寺最上乗院轉法輪寺の堂塔伽藍櫛比し修驗道の靈場なりしなり。

尙此の境内に大宿坊、西室坊、行者坊、實床坊、長床坊、朝原寺、石原寺等の名今尙残り、草茫々たる中に明かに其跡を認むるを得。

元弘元年下赤阪城落城の後、楠木正成は護良親王を奉じ、一時當山に隠れ、賊勢を避け、終に再擧の計を廻し、千早城成るに及び、此山の國見に其の寨を築き正季をして之に據らしめ、千早城背後の防禦をなさしめたり。

山頂の風景頗る佳にして實に阪南地方に冠たらん。

河内名所圖繒に『遙かに遠望すれば、おしでるや難波の浦、大江阪の萬戸、河分口の泊船、北の方に大物の城、西宮、兵庫、和田岬、一の谷、はいわたる程といふ。 須磨、明石、月落ちかゝる淡路島山、阿波の海、紀の海、茅淳の浦々まで見え渡りて風光著し。 こゝも元弘の古城にして、楠正季守り、東軍を直下に見おろし、奇手を鏖の計を廻らしけるとかや。 實に仙境に至るの思あり。 正成は此峰を皇居として、南朝の社稜を興し、天下一統なさしめんと、計りしも宣なる哉や。 畿内最一の要害なり』と記せり。

尙山頂には福石、雄略天皇の御狩跡等の古蹟も 畫猶暗き老杉の間に實時の名殘を止む。

 

谷及瀧、井泉
風呂谷は、大字千早城址の東方にありて、楠木正成此所は用水を貯へ、又炊事場を設けたる所なりと傳ふ。

妙見谷は千早城址の東南に在りて、楠氏の籠城實時、用水を此の谷より比けりと傳ふ。

今尙城本丸茶屋の壇より、風呂谷に至る山腹に、井堰の伏せる跡を認む。

鈴が瀧は大字千早の入り口に在り。
正成大手外防の第一關として此所に千早川を堰き止めて、水城を作れりといふ。

赤瀧は千早より五條に至る山道に在り。正成此の瀧によりて、筒城赤瀧の寨を守れりと傳ふ。

五所の秘水は千早城址より、金剛山に登る山腹に在り。
正成飲料水を引きし所と傳へ、今尙其跡三ヶ所も存し、水極めて浄く四時絶ゆる事なし。

郷土史 土史の研究 南河内郡東部教育会 編 大正15_01

郷土史 土史の研究 南河内郡東部教育会 編 大正15_02

 

 

 

金剛山登山道 坊領ルート

大正15年6月15日に発行された南河内郡東部教育會編 「郷土史の研究」 赤坂村の説明の中に、金剛山へ向かう登山道で、大阪側では最長の坊領ルートと思われる記述がありました。

この登山道は建水分(たけみくまり)神社の裏手付近から上赤坂城跡を通り金剛山へ至るこの登山道が、昔は金剛山への本道だったと書かれています。

ただ、古道との記述なので、大正15年当時にこの登山道を使って金剛登山をする人は少なかったのかもしれません。なんせこのルートを往復すると、金剛登山がまさに一日がかりになりますからね。

赤阪村
古道
今の千早街道は明治二十三年開通にして其の昔は甲取橋南詰より甲取阪を上り、羊腸の舊街道は赤阪城址を経て東阪に通ぜしものなり。
往年甲取阪改修に際し、多数の菊水紋章入の瓦片發掘されたり。
建水分神社裏手に一條の急阪通ぜり。
此れ即ち多聞阪にして昔金剛登山の本道たり。
正成の幼名を採りて此の名有り。

坊領ルート加工

出典:地図検索マップ マピオン http://www.mapion.co.jp/m2/34.41250445,135.67594301,16/poi=L27202020700000000001千早赤坂村のスクリーンショットに登山道(正確ではない)と名称を追記

この地獄谷の表記は、今のマピオンやゼンリンのネット地図で見つけられなかったので、どこのことなんでしょうか?


地獄谷は守屋甲取橋付近一帯の地にして、昔有名なる奇石突出し、兩岸絶壁をなせり。
千早街道開通以來の悌を残さず。
古老の言によれば當時日々撞く浄瑠璃寺の鐘の音の昔は、地勢上或は繁茂せる樹木に遮られて聞こえざるにより地獄谷の名起りしと。

猿瀧は坊領ルートと水分道の間にある川筋にその表記がありました。

漁師が猿を射殺したため、水が枯れて子孫には白斑模様の天罰があったという記述があるので、昔はこの地に猿がいたのでしょうね。


猿瀧は桐山及二河原邊の界に在り。
高さ二𠀋餘、往昔大楠公根田に籠城せし折此處より用水を得たりしに千早村東阪の獵師の某此の附近に住み居たりし猿を射殺せしを以て、直ちに大根田城内飲料水缺乏し、城終に陥れりといふ。
されげ獵師の子孫天罰にて、爾後白斑模様のある人絶えずとの傅説あり。
建水分神社を去る南方五六町の地點に牛瀧あり。
直下六七尺に過ぎざりしが、毎年牛瀧祭に近村の牛に紅白紫黄とり〲の布にて装飾を施し、此の側なる牛瀧神に詣でたるにより古來有名なり。
今水分村民有志間に牛瀧講を祭るは即ち此れなり。

郷土史の研究 南河内郡東部教育会 編 大正15 赤阪村

ご注意:金剛山の登山道に関してはほとんど知らないので、上記の説明が間違っているかもしれません。その際はご指摘をお願いします。

金剛山登山道 青崩道の由来

水越峠から金剛山山頂に向かう登山道の一つに「青崩道」と言う名の登山道があります。

金剛山 青崩

出典:地理院地図(電子国土Web)
http://maps.gsi.go.jp/#15/34.434824/135.679071
※上記の表示画面に青崩道と地名部分を青線で図示した

その登山道の名は水越峠の道路沿いの集落の地名が「青崩(あおげ)」なので、これが由来なんだと思いますが、では「崩れる青」は何だろうとな思っていたところ、大正15年6月15日に発行された南河内郡東部教育會編 「郷土史の研究」の河内村についての説明の中に、青崩谷の記述ありました。

これによると、山崩れがあった際の土の色が青かったということらしいです。

しかし、青い色の土とはどんな土なんでしょうね。

 

河内村
大字上河内の青崩は今より約四百年前、後ろ柏原天皇の大永年中、谷口政治郎氏及奥の淺吉氏の先祖、大字上河内の本郷より離れて、こゝに移住せしに始まる。
地名は中古此地に山崩れあり、土色青色なりし故、かく名つけいと言ふ。(古老の言)

郷土史の研究 南河内郡東部教育会 編 大正15 p123

 

 

昔の書物を読む -郷土史の研究- (葛城山)

大正十五年六月一五日発行 南河内郡東部教育會編「郷土史の研究」に 白木村(現在の大阪府南河内郡河南町)の項目があり、その中で葛城山の記述ありました。

郷土史の研究 南河内郡東部教育会 編 大正15_01

郷土史の研究 南河内郡東部教育会 編 大正15_02

この章では葛城山についての他に、二上山までの間にある各峠の説明や、金剛山と葛城山との間に橋を架けようとした物語も記されています。

なを、本に書かれている漢字で入力するようにしていますが、文字が擦れたりして判別しにくいのもあるため、間違っていたら指摘して頂けると助かります。

葛城山
大和と河内との境上に南北にるい延々たる一帯の山脈、北は山田村竹内峠より南は金剛山を超えて千早峠に至るまでの總稱なるが、現今にては金剛山と區別して、水越峠より北竹内峠に至る間の山塊を葛城山と總す。
土地臺帳面積九十六町歩なるも實測一千二百町歩以上ありと言ふ。
其の高峰は九五九米突餘金剛山頂より約五十米突許り低し。
登り道は河内、持尾、平石よりあれどもいづれも險峻なり。
山中に古くより葛城の岩橋を始め、胎内竇、鉾立石、鍋釜石等の名蹟多し。
久米の架橋
今河内名所區曾の本文を借りて記せば『石川郡平石村の上方にあり、平石より阪道を東に取る事十八町にして葛城の山上少し東の方にあり。
其の石橋の形を見れば巨巌にして面に鐡板の段ある事四つ兩端稍隆うして欄檻に似たり。
幅三尺餘長さ八尺許り、西南の方些し缺けたり。
形勢將に南峰に逮ばんと欲す。
實に人力の到る所にあらず。
傅へ言ふ、昔役の行者優婆塞『小角』葛城の峰より金御獄へ通ひ粭くはんとて石橋をかけなんとす。
これを諸の神に明治給ふ。
葛城の一言主神は容貌いと醜くければ、晝の役をはばかりて夜をまち給ひしより橋を渡し得給はず、行者怒して一言神を呪縛して深谷に押籠置き給へり。
よつて、橋半途にして止みたり。
現今に至るも極めて丈夫なる橋臺を存す。
惟ふにこれは役の行者平石の香花寺を建て、其勢に乗じ葛城附近にて不可思議なる妙計を企てしも、中途にして止みたるならんか。
俗説には此の架け橋を元山上と言ふ。
石不動 架け橋の上方五間許りにあり奇石なり。
鉾立石 高さ二𠀋許り。其形を以て名とす架橋より山下四町にあり。

郷土史の研究 南河内郡東部教育会 編 大正15_03

 

鍋釜石 二つともに形を似て名とせり。これも架橋より西方五町に在り。
胎内潜 葛城山林内平石共有地九百二十七番にありて面積役十坪、高さ二間半、長さ四間餘の巨巌左右より頭を傾け、其間凡そ二尺を隔てゝ南北に併立し、其の狭間をくぐるに大小の差別なく、肩先の廣狭同一の感あること奇妙なり。
磐舟 大字平石哮が峰の山頂にあり。形狀舟の如き巌石なり。
古來葛城山に關する詩歌に (中略)
横尾瀧 一名紅葉の瀧四時水涸れず。𠀋余の清水直下す。昔其邊に瀧姫明神の小祠ありしが、今は磐船大神社に合祀せらる。
氏神例祭の宵宮祭に持尾氏子参拝の節、瀧の方面に向ひて蝋燭を以て献燈するを例とす。
然るに其の献燈は不思議にも如何なる暴風雨にあふもきえずと傅ふ。

郷土史の研究 南河内郡東部教育会 編 大正15_04

 

 

 

御所市の温泉 今昔

明治三十六年四月三十日に金港堂書籍株式會社から発行された「大和名勝」と言う古本に、金剛山の東麓にある「かもきみの湯」の前身にあたる温泉かも?と思われる記述がありました。

「かもきみの湯」のある奈良県御所市大字五百家333は昔の葛上郡なので、葛温泉場とは今の「かもきみの湯」か、もしかしたら昔はこの近所に温泉施設があったのではないか?と想像したわけです。

しかし「かもきみの湯」のホームページの「由来と泉質」を見ても、かもきみの湯の命名の由来しか書かれていませんので、大和名勝で紹介している葛温泉場とは違うかもしれません。

ただ、温泉の出る場所というは限られていますので、はたしてどうなんでしょうね。

 

大和名勝_54

 

葛 温泉場
葛は南和鉄憎の一驛(えき)なり。
一小村なれども、近年温泉發見のため、旅舎(りょしゃ)も出来日(できひ)を逐(おう)て賑合(にぎあ)ふさまなり。
温泉の質はいはゆる礦泉(くわうせん)にて皮膚病胃病脳病等に特効ありと云ふ。
持主は生花樓(しやぐわろう)とて大阪人なり。
故に飲食器具等山間に似ず都びたり。
停車場(ていしゃぢやう)近く、且吉野登山者は大方此よりする事なれば、春の頃は頗(すこぶ)る繁盛す。
礦泉(くわうせん)の分析表及び効用左(こうようさ)のごとし。

成分
格魯見加𠌃謨(コロールカリユム)0.00二六
格魯見那篤𠌃謨(コロールナトリユム)二、五一五
格魯見加爾叟謨(カルシユム)一、七九六
重炭酸加爾叟謨(ジウタンサンカルシユム)三、二〇二
重炭酸麻倔涅叟謨(ジウタンサンマグネシユム)〇、九二九
硫酸加爾叟謨(リウサンカルシユム) 僅微(わずか)
礬土及酸化鐡(ハンドヲヨビサンクワテツ)〇、〇五五
硅酸(ケーサン)〇、二四二
炭酸(タンサン)一、七九九

効用
内服(のめば) 消化不良(ゐのよわり) 腺病及侚僂病(せむし)
浴用(ゆにもちゆれば) 慢性皮膚病(はだのやまひ) 潰傷(てきもの) 頭痛痴(ごつう) 子宮病(しきう) 血の道 リヨウマチス(つうふう) ヒステリー(しやくのやまひ) ヒボコンデル(きのふさぐやまひ) 載傷一切(きりきづいつさい)