水越川の流れの変貌について

元禄時代、金剛・葛城山を仰ぎ見る水越峠は、水をめぐる争いの舞台だった。
大和・河内の国境水論問題に、京都奉行所が大和側勝訴の裁定を下した理由として、 葛上村(現在の御所市)史によれば、古より大和側が水越峠の水を大和斜面へ引水していた既成事実が決め手だったようです。

元禄水論において吐田郷が膀訴した根拠を省禁するに、この勝訴は元禄争論当時の人びとの功績によることは勿論であるが、その識許書に「金剛山本堂は古来大和州内に無紛、彼山大・福場差出候古証文にも為願然云々」と示される如く、勝訴の主因は、元禄よりも進かに古い時代に金剛山は大和領であることを主張し水越峠の水を大和斜面へ引水し、吐田郷水利の便を図り、さらに継続していた点にあるのである。

したがって私は水越水論の功労者は元禄の裁許において活動した人は勿論、それ、以前に水越峠の自然的条件を克順して、人智と人工をもって水越水利の既成事実を作りあげた入こそ、その最大の功労者であると評しても過言ではないと思うのである。このことは、私は佐助の水越争論における業績を示す由結書をみても明らかであると思うのである。すなわち、「葛城山萬字ケ滝並越口切通之両水河州方江切落し、吐田郷描付年々相滞難渋仕候処、右性助(宗倫) 過分の諸費相賭萬端一国一折候に付御領主小掘家より其時之功によりて蘭字帯刀永く差免候云々」とあるように、両水が、河州方によって切落されるまでは、この両水は吐田郷の方<一流下し、その水によって=-田郷は耕作していたことを間接に立証しているのである。

水越峠の水論とは、峠のどちらに水を流すかということになります。

自然の地形では河内側へ流れる川の水を、古の人々が人智と人工をもって大和側へ水の流れを変えた。
その後、河内側の地域が発展したことで水不足が表面化。そもそも自然の地形では河内側へ水が流れるので、川の水は河内側のものだと主張し、実力で水の流れを河内側に変えたことから、大和と河内で元禄の水争いとなった。
そして、元禄14年(1701)大和・河内の国境水論問題は、京都奉行所が大和側勝訴の裁定を下して決着した。

古から水の確保に腐心し、元禄時代には奉行所へ訴えて多大な労力を使ってまで勝ち取ったその水は、現在、河内(大阪)側へ流れていますが、ではいつ頃から水の流れが河内(大阪)側へ流されるようになったのだろうか?

近畿の登山 / 近畿登山研究会編,ヤナギ会, 大正13
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977619/32
の記事には、大正時代に越口で大崩落があり、川の流れが変わったというような記述があります。

最近(大正13年の3月)葛城より水越峠へ下り此事をしつて、私は非常に残念に思つた。流れのなくなつたのは極最近のことらしく、葛城より下る途中、流れの□上手に大崩壊があつたが、其為か或ひは河内へ流れる様にするめに故意にしたものか、流れを埋めたらしい跡を見ると後者らしく思はれる。今、葛城の水は河内へ流れてゐる。そのため青崩路の水量は甚だしく増した様である。

確かに越口の奈良側の谷は崩落の跡があることと、 2011/03/06 にこの谷へロープを使って降りた時には、ひっきりなしに落石がありましたので、この場所の地盤が弱いことは確かなようです。
2011/03/06のブログ記事 「越口の谷はかなり危険」

越口に大崩落が発生したことが原因で、それまで大和(奈良)側に流されていた水越側の流れが河内(大阪)側に変わったのでしょうか? このことにより、現在見られる越口の地形になったのであれば、土砂の量が膨大なため取り除くことを諦めて、新たな水路が造られたのだろうか?

水越峠の水論の調査はまだまだ続く。

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水越峠 水論の現在

水争いをめぐる水越峠の国境画定紛争は、元禄14年(1701)に京都奉行所が大和側勝訴の裁定を下し、大和と河内の国境が画定されてそれが現在の府県境へとなっています。

※下記の図では緑色の線で図示

金剛山 図示

越口から北(葛城山方向)を見た写真に国境線(現在は府県境)を赤い線でを示してみると、京都奉行所は実に絶妙な位置に国境線を確定していることがわかりますね。

では、河内側を流れている水をどのようにして大和側に流しているのか、見てみましょう。

道路の右側は急峻な谷筋がはじまっているので、写真左側にある川の流れを右側へ付け替えることが可能な位置にあります。

次に反対(南を向いた方向)から見た写真に、国境線(現在は府県境)を赤い線で示します。

また大阪側と奈良側への川筋を水色の線で示しました。

これを見ると、道路が分水嶺となっていることがわかります。

なを、この道路部分は、近畿の登山 :近畿登山研究会編,ヤナギ会, 大正13の記事よると、大正時代にこの越口で大崩落があり、川の流れが変わったというような記述がありますので、崩落によって元の谷筋が埋まって出来たのがこの道路なのかもしれません。

最近(大正13年の3月)葛城より水越峠へ下り此事をしつて、私は非常に残念に思つた。流れのなくなつたのは極最近のことらしく、葛城より下る途中、流れの□上手に大崩壊があつたが、其為か或ひは河内へ流れる様にするめに故意にしたものか、流れを埋めたらしい跡を見ると後者らしく思はれる。今、葛城の水は河内へ流れてゐる。そのため青崩路の水量は甚だしく増した様である。

次に、上記写真からさらに南(写真の奥)に進むと、大阪側と奈良側へ水の流れが分けられる地点に来ます。

地理院地図(電子国土web)や現地を見ると、この付近の地形が絶妙で、大和の人々が地形を切り崩して河内へ流れる水を大和へ流そうとする発想に至るのも理解できます。

現在の奈良県(大和國)へ流れる流路は、この付近の大崩落後、新たに作られたものだと思いますが、地形の勾配をうまく利用していることがわかります。

取水口から取り込まれた水は、道路下の暗渠を流れて道路の右脇(東側)をしばらく天井川の流れとなって、その後小さな滝となって祈りの滝へ向かう谷筋へ流れ落ちていきます。

越口 図示

 

 

 

川筋から道路を見ると、奈良県(大和國)側へ分流する取水口が空いているのが見えます。

この開口部へ水が流れ込むか流れ込まないかで水がたどる道が大きく変わると思うと、感慨深いものがあります。

しかし、越口から分流の理由でコメントをいただいた、おの@あびこ様の言葉を借りると、

さらに流下していけば、結局のところどちらの川もやがては大和川に合流し、あびこの南端を流れて大阪湾に注ぐわけです。

となるわけで、太平洋側と日本海側に分かれる分水嶺ほどの雄大さはありませんね。

上記写真から右を向くと、川の流れる水が大阪側と奈良側へ分けられています。

このように、水の流れを河内國(大阪側)か大和國(奈良側)に流すのかを決定する場所が大和國側に属したことにより、元禄期の水紛争が大和側の勝訴となったわけです。

なを、この日は奈良県側へ水が流れないように、石を積み上げて堰き止められていました。これが悪戯なのか、故意なのか、協定によるものなのかは不明です。

越口から分流の理由

水越峠からダイトレ(林道)を金剛山に向けて歩いて行くと、越口という所で、大阪側に流れていた沢の水を一部、奈良県側に分流しているのが見えます。

写真:越口 ※昼間の写真がありませんので、夜の写真を掲載します。

この地域の歴史を知らなかった頃は、上手いこと考えたものだと思っていましたが、実はそうではなく、水を巡る争いの現場だったわけですね。

葛城神社社務所史跡金剛山奉賛会発行の「金剛山記」に詳しく書かれていましたので、こちらに抜粋して転載します。なを、本を見ながら手入力しましたので、誤字脱字があればご指摘ください。

以下、本文。

水越川をめぐる水論

当時の大和側の水越川の上流は、今日の水越峠の手前で南側の小河谷にたっし、その小谷の南端が水源であり、底には金剛山頂から直線距離でもなお2kmほど手前であった。その2kmの部分には幅1kmほどの谷が存在し、この谷の降水は水越川の先端をかすめるように北西流し、河内側から伸びる水越川(東条川)へ流下していた。この金剛山頂の約二平方kmの流域は、標高600m以上の部分に広がり、年降水量2,000mmとすると、年間約400万トンの降水量となり、重要な水源ということになる。

そこで先行的にこの水源に注目した大和側の農民は、河内側へ流下する河内側の水越川(東条川)の水を、大和側の水越側の水源地部分へ越口で流入させるように手を加え、灌漑用水を確保し、さらに葛城山の南斜面を水越峠へ流下する万治ヶ滝の小河谷の水も水越峠を越えて大和側へ流入させた。

(中略)田植期に降水不足で水不足になると、この関心は一気に高まることになり、河内側は河内川の水越側(東条川)の水源が大和側へカットされている事実に意義を唱えるようになった。しかも、当時、金剛山から葛城山に至る国境も定かではなかった。

それゆえ。元禄期に入ると、水の流をカットした井手の部分が攻防の的となり、国境改めの検討が始まり、両国の山麓の村々はそれぞれ有利な国境設定案を唱え、高取藩植村家の調停レベルから、京都町奉行の手へ持ち込まれるほどもつれることになった。

(中略)元禄14年(1701)、田植期にはいった5月6日の朝、河内側は万治ヶ滝と越口の水を河内側へ切り落とし、さらに、同月8日には千人余りの河内側の農民が本結の髪に白紙をつけておしかけ、両方の切り口を確保した。これに驚いた大和側の多くの農民が参集したが、河内側を押し返すことはできず、庄屋高橋佐助などを指導者として、京都奉行所へ出訴し、もっぱら中央での調停工作に中心を置く戦術をとった。

舞台は調停の場に持ち込まれ、河内側は金剛山から葛城山へ至る自然的境界こそ国境にすべきことを土絵図を作製主張し、大和側は水越峠を西へ越した鎌取石で、大阪冬の陣の時の大和側が兵糧運搬をチェックしたことから、そこが両国の国境であると主張した。いずれも水源地を取り込むための主張であった。

御検使役が現場検証をし、12月21日に裁許が言い渡された。敗訴を漏れ知った河内側は欠席のままであった。

(中略)この決定は、国境については両者の主張を中間的な形で妥協させ、水越峠を国境としたが、金剛山頂から前述の河内側水越川(東条川)の上流部一体を大和側に属するものとしたほか、水利権については、大和側の旧来の水利の事実を認める形で、大和側の言い分を全面的に認めることになった。こうして、まさに「水越峠」が確定したのである。

結果的には、近世に入って河内側の金剛山六の村々の急速な開田化の動きが、それ以前から行われていた大和側による水越の流水取得に意義を唱えたが、結局、それまでの慣行が承認される形となった。その背景には、そのような慣行をふまえた大和側の実績と、基本的な水不足の認識をふまえた高橋佐助などのすぐれた指導者の存在が大きな役割を果たしたものと思われる。

なを、同じ事態が明治に入って再現しそうになったが、この時もそれまでの慣行が尊重されている。このような水利慣行は明治民法で裏付けられ、今日まで継承されている。これにより、吐田郷を中心とした村々は、比較的安定した水利条件を確保し、この地域では代表的な米作地として知られることになり、大阪の米市場とも結びつき、その中心集落である名柄は水越峠を利用して大阪側へ顔を向ける面も多かった。安定した水利と水越峠が、大阪経済圏をこの地域まで拡大することになったのは皮肉なことであったといえようか。