近代以降になって造立された五輪塔の例としての上田角之進伝説

水越峠から金剛山へダイヤモンドトレールで歩みを進めて約20分で越口と言う場所に到着しますが、この場所が金剛山を水源とし、河内(大阪)側へ流れていた水を大和(奈良)側に流路を変え、さらには現在の金剛山山頂の所属が奈良県になった功労者である、上田角之進についての記述がありました。

国立歴史民俗博物館研究報告第141集の581-590の、関沢まゆみ著「死者の火 儀礼伝承の潜伏と顕在と」という記事があり、その中の「2 郷墓と五輪」に、近代以降になって造立された五輪塔の例として上田角之進伝説の記事を見つけましたので紹介します。

大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ

※本文は上記サイトからPDFでダウンロードできます。

国立歴史民族博物館研究報告 第141集

 

以下、本文抜粋

大和吐田郷と上田角之進伝説

現在でも奈良県下の郷墓地帯には新しく近代以降になって造立された五輪塔の例がみられる。たとえば、奈良県御所市名柄(旧吐田郷)の日蓮宗本久寺境内にある上田角之進の墓塔である。これについては別稿(7)で詳論しているところであるが、その一部を紹介すれば以下のとおりである。

吐田郷地域の水越川水系にはその上流から、関屋、増、名柄、豊田、宮戸、森脇の六大字がいわゆる水郷を形成している。水越川の水源は金剛山にあるが、この水をめぐって歴史的に大和側と河内側との間ではげしい水論が繰り返されてきた。

吐田郷ではこの水越川の開拓者として上田角之進(元和三(一六一七)年三月一八日没)という伝説上の人物の名が伝えられている。

上田角之進は大和側の水不足を解消するために、もともと河内側に流れていた金剛山の水を大和側へ流れるように上流でおおがかりな開削工事を行なった人物であり、元禄一四(一七〇一)年の河内側との水論における大和側の勝因は水越川の水がその工事によって事実上、大和へと流れ落ちていた事実が検使奉行に認定されたからであった。

そこで、水越川の開削者として上田角之進の名前がその功績とともに語り伝えられてきているのである。

それ以降五〇年ごとに角之進の報恩大法要が営まれ、文化一三(一八一六)年に二百回忌、安政四(一八五七)年に二百五十回忌が営まれ、「南無妙法蓮華経 為善久菩提 元和三年三月十八日」と書かれた供養塔が建てられた。

これは五輪塔の型式ではなかったが「安政四丁巳年三月十八日 戴百五拾回忌為菩提再建立」と記されており、安政四(一八五七)年に建立されたものであることがわかる。

しかしその後、明治一四(一八八一)年三月に、吐田郷中の名前で本久寺本堂前に建立された角之進の供養塔は五輪塔の型式であった。そしてその五輪塔とは人びとにとってこの近隣の郷墓である極楽寺墓や九品寺墓などで多く見られる中世の記念碑的な意味をもっている伝統的かつ歴史回顧的な墓塔型式なのである。

本稿では、この日本の五輪塔のように近世前期で一度は喪失した型式が近代以降に新たに復活する事例や、また儀礼として一度は喪失したものがその後に復活する場合のその理由の追跡等に向けて、墓地と死者表象という問題からフランス中部に分布する「死者の火」の塔の調査事例の紹介を行なっておくこととする。

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水越川の流れの変貌について

元禄時代、金剛・葛城山を仰ぎ見る水越峠は、水をめぐる争いの舞台だった。
大和・河内の国境水論問題に、京都奉行所が大和側勝訴の裁定を下した理由として、 葛上村(現在の御所市)史によれば、古より大和側が水越峠の水を大和斜面へ引水していた既成事実が決め手だったようです。

元禄水論において吐田郷が膀訴した根拠を省禁するに、この勝訴は元禄争論当時の人びとの功績によることは勿論であるが、その識許書に「金剛山本堂は古来大和州内に無紛、彼山大・福場差出候古証文にも為願然云々」と示される如く、勝訴の主因は、元禄よりも進かに古い時代に金剛山は大和領であることを主張し水越峠の水を大和斜面へ引水し、吐田郷水利の便を図り、さらに継続していた点にあるのである。

したがって私は水越水論の功労者は元禄の裁許において活動した人は勿論、それ、以前に水越峠の自然的条件を克順して、人智と人工をもって水越水利の既成事実を作りあげた入こそ、その最大の功労者であると評しても過言ではないと思うのである。このことは、私は佐助の水越争論における業績を示す由結書をみても明らかであると思うのである。すなわち、「葛城山萬字ケ滝並越口切通之両水河州方江切落し、吐田郷描付年々相滞難渋仕候処、右性助(宗倫) 過分の諸費相賭萬端一国一折候に付御領主小掘家より其時之功によりて蘭字帯刀永く差免候云々」とあるように、両水が、河州方によって切落されるまでは、この両水は吐田郷の方<一流下し、その水によって=-田郷は耕作していたことを間接に立証しているのである。

水越峠の水論とは、峠のどちらに水を流すかということになります。

自然の地形では河内側へ流れる川の水を、古の人々が人智と人工をもって大和側へ水の流れを変えた。
その後、河内側の地域が発展したことで水不足が表面化。そもそも自然の地形では河内側へ水が流れるので、川の水は河内側のものだと主張し、実力で水の流れを河内側に変えたことから、大和と河内で元禄の水争いとなった。
そして、元禄14年(1701)大和・河内の国境水論問題は、京都奉行所が大和側勝訴の裁定を下して決着した。

古から水の確保に腐心し、元禄時代には奉行所へ訴えて多大な労力を使ってまで勝ち取ったその水は、現在、河内(大阪)側へ流れていますが、ではいつ頃から水の流れが河内(大阪)側へ流されるようになったのだろうか?

近畿の登山 / 近畿登山研究会編,ヤナギ会, 大正13
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977619/32
の記事には、大正時代に越口で大崩落があり、川の流れが変わったというような記述があります。

最近(大正13年の3月)葛城より水越峠へ下り此事をしつて、私は非常に残念に思つた。流れのなくなつたのは極最近のことらしく、葛城より下る途中、流れの□上手に大崩壊があつたが、其為か或ひは河内へ流れる様にするめに故意にしたものか、流れを埋めたらしい跡を見ると後者らしく思はれる。今、葛城の水は河内へ流れてゐる。そのため青崩路の水量は甚だしく増した様である。

確かに越口の奈良側の谷は崩落の跡があることと、 2011/03/06 にこの谷へロープを使って降りた時には、ひっきりなしに落石がありましたので、この場所の地盤が弱いことは確かなようです。
2011/03/06のブログ記事 「越口の谷はかなり危険」

越口に大崩落が発生したことが原因で、それまで大和(奈良)側に流されていた水越側の流れが河内(大阪)側に変わったのでしょうか? このことにより、現在見られる越口の地形になったのであれば、土砂の量が膨大なため取り除くことを諦めて、新たな水路が造られたのだろうか?

水越峠の水論の調査はまだまだ続く。

昭和30年頃の大宿坊跡

最近入手した葛上村史(現御所市)に、金剛山山頂にある大宿坊跡の写真が掲載されていました。

 

ここに写っているのは、現在転法輪寺さんがお守りなどを販売している建物でしょうか。

この鳥居の奥の風景が現在とは少し違っています。

写真 手前はしだれ桜でしょうか。

昭和30年頃には、現在見られる建物があったのですね。

この葛上村史は昭和33年3月30日発行とありますので、私が生まれる前となります。

私もおっさんの年齢ですが、この郷土史に記されている金剛山の大宿坊跡は、さらに歴史があるわけですね。

なを現在、葛上村は近隣の村と合併して御所市となっていますので、これも歴史を感じます。

 

越口の水論を調べるために古い文献をあたっているのですが、こういう写真を見ると、古い金剛山の写真を集めるのも面白そうです。

越口の谷はかなり危険

水越峠からダイトレを金剛山方向に約1km歩くと「越口」という場所があります。

ここは元来河内側に流れていた水越川の水を、古くから栄えていた葛城側に流れを替えていたが、河内側の水需要の高まりから水争いを発端とした国境線確定の訴訟に発展し、元禄14年(1701)に葛城側勝訴となった、歴史ある場所なんですね。

水越川から分流した水はしばらく道路沿いに天井川の流れとなり、やがて越口の奈良側の谷へと落ちていきます。

今日は、越口の谷がどのようになっているのか? 実際に下りて現場を見てきました。

しかし、降りると言っても道はありませんし、奈良側の谷は崖に近い斜度のため、ロープを使って下降して行きます。

砂防堰堤まで約半分ほど下りたところです。

降りたところにある砂防堰堤。

ほとんど砂礫で埋まっています。

ダイトレを歩いている限りでは気が付きませんが、この場所は絶えず斜面が崩落し続けている現場で、数分に1回は落石の音が聞こえます。

当初はこの堰堤の場所から右に進み、水が流れ落ちる所まで行く予定をしていましたが、上記のとおり落石が頻繁に発生していることと、この堰堤の写真撮影の直後に対岸の斜面が、バサッ!ガラガラ!と、まとまった落石が発生したので、この場所は危険と判断し、直ちに登高を開始します。

登高システムを上から見る。

道路までもう少し。

越口とから祈りの滝に向かう谷は、上記の通り小規模な斜面崩落や落石が頻繁に発生していますので、谷に降りると越口を通る道路が崩落しないのが不思議なくらいです。

砂防堰堤がいっぱいになるのも時間の問題ですが、新たに堰堤を作る工事をしようにも、斜面の補強からする必要がありますので、費用が莫大なものになるでしょう。

しかし、越口の道路が崩落すれば、元来大阪側に流れていた水が奈良側に流れるようになりますので、奈良県としてはこのまま自然の成り行きに任せている、と言うのは、かなりひねくれた見方かもしれません。

水越川砂防ダム

大阪府富田林土木事務所から、「水越川砂防ダム」のパンフレットを頂きました。

この砂防ダムのある場所というのが、林道石ブテ線を登った先にある、あの巨大な堰堤です。

資料によれば、水越川砂防ダムは、平成6年3月に完成したとあります。

このパンフレットに記載されている写真は、工事途中のものなので、この付近の当時の様子を知る資料にもなります。

また、このダム工事とともに、水越峠の旧道に入ってから、金剛バス 水越峠の転回場までを「水越川砂防環境整備ゾーン」として整備されたようです。

この巨大なダム工事も、今となっては富田林土木事務所に残る資料はこのパンフレット一枚だけだそうで、貴重な物を頂きました。

大阪府富田林土木事務所の皆様、ありがとうございました。

パンフレットをスキャンしてPDF化したものをこちらのサイトからダウンロードできます。

ダウンロード期間は、本日を含めて3日間です。

http://firestorage.jp/download/d69ce1cfa72f2bf00caf75aa808dba8d116463c8

水越峠 水論の現在

水争いをめぐる水越峠の国境画定紛争は、元禄14年(1701)に京都奉行所が大和側勝訴の裁定を下し、大和と河内の国境が画定されてそれが現在の府県境へとなっています。

※下記の図では緑色の線で図示

金剛山 図示

越口から北(葛城山方向)を見た写真に国境線(現在は府県境)を赤い線でを示してみると、京都奉行所は実に絶妙な位置に国境線を確定していることがわかりますね。

では、河内側を流れている水をどのようにして大和側に流しているのか、見てみましょう。

道路の右側は急峻な谷筋がはじまっているので、写真左側にある川の流れを右側へ付け替えることが可能な位置にあります。

次に反対(南を向いた方向)から見た写真に、国境線(現在は府県境)を赤い線で示します。

また大阪側と奈良側への川筋を水色の線で示しました。

これを見ると、道路が分水嶺となっていることがわかります。

なを、この道路部分は、近畿の登山 :近畿登山研究会編,ヤナギ会, 大正13の記事よると、大正時代にこの越口で大崩落があり、川の流れが変わったというような記述がありますので、崩落によって元の谷筋が埋まって出来たのがこの道路なのかもしれません。

最近(大正13年の3月)葛城より水越峠へ下り此事をしつて、私は非常に残念に思つた。流れのなくなつたのは極最近のことらしく、葛城より下る途中、流れの□上手に大崩壊があつたが、其為か或ひは河内へ流れる様にするめに故意にしたものか、流れを埋めたらしい跡を見ると後者らしく思はれる。今、葛城の水は河内へ流れてゐる。そのため青崩路の水量は甚だしく増した様である。

次に、上記写真からさらに南(写真の奥)に進むと、大阪側と奈良側へ水の流れが分けられる地点に来ます。

地理院地図(電子国土web)や現地を見ると、この付近の地形が絶妙で、大和の人々が地形を切り崩して河内へ流れる水を大和へ流そうとする発想に至るのも理解できます。

現在の奈良県(大和國)へ流れる流路は、この付近の大崩落後、新たに作られたものだと思いますが、地形の勾配をうまく利用していることがわかります。

取水口から取り込まれた水は、道路下の暗渠を流れて道路の右脇(東側)をしばらく天井川の流れとなって、その後小さな滝となって祈りの滝へ向かう谷筋へ流れ落ちていきます。

越口 図示

 

 

 

川筋から道路を見ると、奈良県(大和國)側へ分流する取水口が空いているのが見えます。

この開口部へ水が流れ込むか流れ込まないかで水がたどる道が大きく変わると思うと、感慨深いものがあります。

しかし、越口から分流の理由でコメントをいただいた、おの@あびこ様の言葉を借りると、

さらに流下していけば、結局のところどちらの川もやがては大和川に合流し、あびこの南端を流れて大阪湾に注ぐわけです。

となるわけで、太平洋側と日本海側に分かれる分水嶺ほどの雄大さはありませんね。

上記写真から右を向くと、川の流れる水が大阪側と奈良側へ分けられています。

このように、水の流れを河内國(大阪側)か大和國(奈良側)に流すのかを決定する場所が大和國側に属したことにより、元禄期の水紛争が大和側の勝訴となったわけです。

なを、この日は奈良県側へ水が流れないように、石を積み上げて堰き止められていました。これが悪戯なのか、故意なのか、協定によるものなのかは不明です。

水越峠 水紛争後の河内側について

京都奉行所に出訴された水争いをめぐる水越峠の国境画定紛争は、元禄14年(1701)に河内側が敗訴するという結果に終わったため、その後、金剛山山麓の河内側の水利は、井路・溜池・井戸など灌漑施設の整備を進め、水不足に対応してきた。

これについて【堀内義隆 大阪府東条川流域の灌漑水利の研究】から、河内側の水越川流域について見てみる。(引用して編集しています)

水越川流域は河川の侵食がすすみ、河岸低地と中央平野面とは、北部の南別井部落で約10m内外、中央部の神山部落附近で6~7mの急崖をなしている。このため中央平野面は台地をなし、これを河南台地と仮称する。この台地は砂礫が多く、水田の保水力は非常に悪く,反当用水量も低地部にくらべ1.5倍も要するといわれている。

東条川からの用水確保のため、引水堰は競って山麓地帯に設けられていて、山麓地方に集約された井堰より多数の長い引水路が台地面に設置されているが、用水は上流部から引水されるため、下流に向うに従って水量は減少し,漉末一帯は古くからの旱損場であった。

河川灌漑は山間部の青崩で約100%,山麓の中村部落で38%,中流の白木部落で41%,下流の石川村で34%,溜池灌漑は山地部では平均10%内外,中下流では24~36%となっている。

そのため中流域以下では用水不足のため溜池を併用しているが、夏季用水期間中の貯水は殊に困難で、ほとんど繰り返し利用は不可能な状況であった。

しかし、金剛山脈の西斜面一帯は6~9月の降雨量は740mm内外で、奈良盆地よりはるかに多量であるにもかかわらず、中下流一帯が用水の不足するのは、前述の水越川上流問題と、千早川筋においても、上流の東阪や上東阪部落附近で、堀越井路、花折井路が取水して反対斜面の佐備川流域に引水していることが大きい。このような流域変更は社会的歴史的要因によるもので,これが台地一帯の用水不足の根本原因である。

用水が不足する要因として、土地の保水力、河川水量の減少、流域変更が考えられるが、さらに【山極二郎 大阪府下の灌漑農業 上】ではこう述べられている。

雨量の少いと云ふ事も相對的の事で、之れ丈の水田を有する地方としては水不足であるの義で決して絶對量が少いものではない。

大阪平野の降水量は約千四百粍で最小は堺市附近の千三百粍弱で、山地に入れば千五六百と増してくるのみならず降水は重に植物の生育期にあるのであるから映して少いとは云へぬ、一般に瀬戸内地方は雨少しとの前提から直に當府も雨不足の地域に入れて結論をいそぐ事より此誤解が生じたのである。

即ち世界的に比較して見れば千粍が多少の境をつけるものと考へるから、之れを超ゆる事四百粍であるから多雨の地として見るべく西隊の多雨地と考へられてある倫敦巴里などに比べると約二倍以上の降水量である。

(中略)

故に府下の權漑農業は降水量から見て水不足とするも砂漠又は草地地方に行はれるものと全然異るものである事に注意しなければならぬ。第二の原因は諸川の流域が小で、即ち集水面積が小である爲に、其下流にある水田を充分にうるほす事の出來ないと云ふ事にある。

まとめ。

水越川上流域は大和側に属することになったために水越川の水量が減り、下流域の水不足に悩まされることになるが、降水量が絶対的に少ない地域ではないため、水不足の原因として、耕作面積の広がりが河川で用水を補える量を越えているため、水不足が発生するということと思われる。