金剛山登山道 坊領ルート

大正15年6月15日に発行された南河内郡東部教育會編 「郷土史の研究」 赤坂村の説明の中に、金剛山へ向かう登山道で、大阪側では最長の坊領ルートと思われる記述がありました。

この登山道は建水分(たけみくまり)神社の裏手付近から上赤坂城跡を通り金剛山へ至るこの登山道が、昔は金剛山への本道だったと書かれています。

ただ、古道との記述なので、大正15年当時にこの登山道を使って金剛登山をする人は少なかったのかもしれません。なんせこのルートを往復すると、金剛登山がまさに一日がかりになりますからね。

赤阪村
古道
今の千早街道は明治二十三年開通にして其の昔は甲取橋南詰より甲取阪を上り、羊腸の舊街道は赤阪城址を経て東阪に通ぜしものなり。
往年甲取阪改修に際し、多数の菊水紋章入の瓦片發掘されたり。
建水分神社裏手に一條の急阪通ぜり。
此れ即ち多聞阪にして昔金剛登山の本道たり。
正成の幼名を採りて此の名有り。

坊領ルート加工

出典:地図検索マップ マピオン http://www.mapion.co.jp/m2/34.41250445,135.67594301,16/poi=L27202020700000000001千早赤坂村のスクリーンショットに登山道(正確ではない)と名称を追記

この地獄谷の表記は、今のマピオンやゼンリンのネット地図で見つけられなかったので、どこのことなんでしょうか?


地獄谷は守屋甲取橋付近一帯の地にして、昔有名なる奇石突出し、兩岸絶壁をなせり。
千早街道開通以來の悌を残さず。
古老の言によれば當時日々撞く浄瑠璃寺の鐘の音の昔は、地勢上或は繁茂せる樹木に遮られて聞こえざるにより地獄谷の名起りしと。

猿瀧は坊領ルートと水分道の間にある川筋にその表記がありました。

漁師が猿を射殺したため、水が枯れて子孫には白斑模様の天罰があったという記述があるので、昔はこの地に猿がいたのでしょうね。


猿瀧は桐山及二河原邊の界に在り。
高さ二𠀋餘、往昔大楠公根田に籠城せし折此處より用水を得たりしに千早村東阪の獵師の某此の附近に住み居たりし猿を射殺せしを以て、直ちに大根田城内飲料水缺乏し、城終に陥れりといふ。
されげ獵師の子孫天罰にて、爾後白斑模様のある人絶えずとの傅説あり。
建水分神社を去る南方五六町の地點に牛瀧あり。
直下六七尺に過ぎざりしが、毎年牛瀧祭に近村の牛に紅白紫黄とり〲の布にて装飾を施し、此の側なる牛瀧神に詣でたるにより古來有名なり。
今水分村民有志間に牛瀧講を祭るは即ち此れなり。

郷土史の研究 南河内郡東部教育会 編 大正15 赤阪村

ご注意:金剛山の登山道に関してはほとんど知らないので、上記の説明が間違っているかもしれません。その際はご指摘をお願いします。

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