昔の書物を読む -郷土史の研究- (葛城山)

大正十五年六月一五日発行 南河内郡東部教育會編「郷土史の研究」に 白木村(現在の大阪府南河内郡河南町)の項目があり、その中で葛城山の記述ありました。

郷土史の研究 南河内郡東部教育会 編 大正15_01

郷土史の研究 南河内郡東部教育会 編 大正15_02

この章では葛城山についての他に、二上山までの間にある各峠の説明や、金剛山と葛城山との間に橋を架けようとした物語も記されています。

なを、本に書かれている漢字で入力するようにしていますが、文字が擦れたりして判別しにくいのもあるため、間違っていたら指摘して頂けると助かります。

葛城山
大和と河内との境上に南北にるい延々たる一帯の山脈、北は山田村竹内峠より南は金剛山を超えて千早峠に至るまでの總稱なるが、現今にては金剛山と區別して、水越峠より北竹内峠に至る間の山塊を葛城山と總す。
土地臺帳面積九十六町歩なるも實測一千二百町歩以上ありと言ふ。
其の高峰は九五九米突餘金剛山頂より約五十米突許り低し。
登り道は河内、持尾、平石よりあれどもいづれも險峻なり。
山中に古くより葛城の岩橋を始め、胎内竇、鉾立石、鍋釜石等の名蹟多し。
久米の架橋
今河内名所區曾の本文を借りて記せば『石川郡平石村の上方にあり、平石より阪道を東に取る事十八町にして葛城の山上少し東の方にあり。
其の石橋の形を見れば巨巌にして面に鐡板の段ある事四つ兩端稍隆うして欄檻に似たり。
幅三尺餘長さ八尺許り、西南の方些し缺けたり。
形勢將に南峰に逮ばんと欲す。
實に人力の到る所にあらず。
傅へ言ふ、昔役の行者優婆塞『小角』葛城の峰より金御獄へ通ひ粭くはんとて石橋をかけなんとす。
これを諸の神に明治給ふ。
葛城の一言主神は容貌いと醜くければ、晝の役をはばかりて夜をまち給ひしより橋を渡し得給はず、行者怒して一言神を呪縛して深谷に押籠置き給へり。
よつて、橋半途にして止みたり。
現今に至るも極めて丈夫なる橋臺を存す。
惟ふにこれは役の行者平石の香花寺を建て、其勢に乗じ葛城附近にて不可思議なる妙計を企てしも、中途にして止みたるならんか。
俗説には此の架け橋を元山上と言ふ。
石不動 架け橋の上方五間許りにあり奇石なり。
鉾立石 高さ二𠀋許り。其形を以て名とす架橋より山下四町にあり。

郷土史の研究 南河内郡東部教育会 編 大正15_03

 

鍋釜石 二つともに形を似て名とせり。これも架橋より西方五町に在り。
胎内潜 葛城山林内平石共有地九百二十七番にありて面積役十坪、高さ二間半、長さ四間餘の巨巌左右より頭を傾け、其間凡そ二尺を隔てゝ南北に併立し、其の狭間をくぐるに大小の差別なく、肩先の廣狭同一の感あること奇妙なり。
磐舟 大字平石哮が峰の山頂にあり。形狀舟の如き巌石なり。
古來葛城山に關する詩歌に (中略)
横尾瀧 一名紅葉の瀧四時水涸れず。𠀋余の清水直下す。昔其邊に瀧姫明神の小祠ありしが、今は磐船大神社に合祀せらる。
氏神例祭の宵宮祭に持尾氏子参拝の節、瀧の方面に向ひて蝋燭を以て献燈するを例とす。
然るに其の献燈は不思議にも如何なる暴風雨にあふもきえずと傅ふ。

郷土史の研究 南河内郡東部教育会 編 大正15_04

 

 

 

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