昔の書物を読む -大和名勝-

金剛山の関する情報は金剛山登山道情報を始めとして、様々な方々のブログで知ることができます。

季節の移ろいや、植物の開花情報に登山道上の危険情報など、今では出かける前にある程度の情報を知った上で金剛登山ができるので、ありがたい世の中になったものです。

そうなると今度は、昔の金剛山や葛城山・二上山の様子は現在と比べてどうだったのか、とても興味がわいてきます。

そこでネットで昔の金剛山の様子を検索して調べていると、昔の書物がPDFで公開されていましたので、ダウンロードして読み耽っています。

ダウンロードした書物の一つに、明治三十六年四月三十日に金港堂書籍株式會社から発行された「大和名勝」という書物があります。

これは表題のとおり奈良県の名勝を紹介した本ですが、その中から二上山、葛城山、金剛山について抜き出して紹介しましょう。

大和名勝001_01

明治三十六年時点の現在の奈良県の地図。

これを見ると、現在のJR線はこの頃にはすでに開通していたようですが、近鉄南大阪線、吉野線、御所線はまだ未開通なことが分かります。

また、金剛山山頂付近の県境を表す線は正確に描かれていないな、などと突っ込みを入れながら見てしまいます。

ともかく、古い地図は現在との違いを見比べるのは楽しいですね。

大和名勝002_01

大和國略圖

郷土史を読むとき、こういう略図があると位置関係が分かりやすくて助かります。

大和名勝010_01

二上山は現在、高い方の山を雄岳、低い方の山を雌岳と表記していますが、明治36年当時は男嶽女嶽と表記していたようですね。

この表記だと、実際は優美な姿の山なのに厳つい山の印象に感じますね。

二上山の説明の中に「南に瀑布(ばくふ)あり」と書かれていますが、この瀑布とは何ぞや思いネットで検索すると、「高い所から白い布を垂らしたように、直下する水の流れ。滝。飛泉。」とありますが、二上山の南にこんな所があったかな?

ひょっとして雌岳山頂から南東にある祐泉寺の側を流れる小川の流れは、当時(明治36年)はもっと水量が多かったのかな?という想像をしていますが、はたしてどうなんでしょうか。

では、以下に本文を転記します。

書物に書かれているとおりの文字を入力していますが、旧字のため間違いがあればご容赦ください。

 

二上山
二上山(ふたかみやま)は當麻村の西北に在りて河内國に跨(またが)れり。 二上とは二峯(ふたみね)なるが故なり。男嶽女嶽(おとこだけ おんなだけ)といふ。 恰(あたか)も常陸の筑波山のごとし。 北に小峯(こみね)あり銀峯(ぎんぼう)といふ。 南に瀑布(ばくふ)あり。 一𠀋餘(ぢようよ)なり。 山頂に二上神社あり。 今權現(いまごんげん)と稱(しょう)す。

□ ぬば玉の夜は明けぬらし玉くしげ 二上山に月かたふきぬ。
家(やか)持(もち)

大和名勝048_01

次は葛城山ですが、文字数も少なくあっさりしたものです。

葛城山
葛城山は南北葛城兩郡(なんぼくかつらぎりやうぐん)に連なり、嶺の西方は河内に隷(およ)ぶ。 嶺多く谿(たに)深し。 第一峯を高天山といふ。 高さ三百𠀋。

萬葉
青柳のかつらぎ山に立つきりの 立ても居ても妹をしぞおもふ
人(ひと)麿(まろ)

後撰
玉かつら葛城山の紅葉(もみぢば)は 面かげにのみ見えわたるかな
貫(つら)之(ゆき)

大和名勝051_01

金剛山はなぜか金剛山寺という表記になっています。

葛城山と同様に文字数も少なくあっさりしたものですが、本文の多くは「大和志」からの引用のようで、この大和志の中に現在の葛城神社や転法輪寺の様子が書かれています。

ここで「葛城の社は山のいと高き頂上に在て、大和國なり」とありますが、葛城の社とは現在の葛城神社ことと思いますが、ここは奈良県御所市に属していますので、この表記が間違っていいたため、上記の地図に描かれている県境の線も間違って書かれていたのかもしれません。

しかし、なぜ金剛山寺と表記したのかは謎です。

金剛山寺
金剛山寺は、葛城山の頂に在り。

一名は高天寺(かうてんじ)、正堂(しゃうどう)一宇、少祠(せうし)二宇大和に属し、餘(よ)は皆河内に隷(れい)す。

東北は則朝原寺東南(すなはちあさはらてらとうなん)は則石寺舊名猪石岡(すなはちいしでらきうめいるいはのをか)といふ。
大和志
按(あんずる)に貝原益軒南遊紀行(かいばらにきけんなんいうきかう)に云う、葛城山は大峯の外畿内(ほかきない)にも近國にも是程の高山(かうざん)は見えず。
絶頂(ぜつちゃう)に葛城の神社あり、大社(たいしゃ)なり、一言主の神(かみ)といふ、役行者堂あり、山上より二町西に下れば、河内國金剛山轉法輪寺(かわちのくに こんがうざん てんはふりんじ)あり、役小角(にんのせうかく)の開基なり、是山伏の嶺入して修法(しふはふ)する所なり、憎寺六坊あり、皆家作美大(みなかさくびだい)なり、大和河内の農民此神(のうみん このかみ)を甚奠崇(はなはだぞんしう)し、社の下の土をすこしばかり取てかへり、我田地に入れば、稲よく實(みのり)て虫くはずとて、参詣(さんけい)の人夥(ひとおびただ)し皆宿坊ありて宿(しゅく)するもの多し、檀那(だんな)にあらざれば、宿をかさず、葛城の社は山のいと高き頂上に在て、大和國なり、金剛寺の寺院は西の方の少(ち)ひさき所に在(あつ)て、河内國なり。
葛城の本社のすこし西に石不動を立たり、是大和河内の境なり、葛城の北にある大山をかいなが嶽といふ、河内にては是を篠峯(しのみね)と號(がう)す、篠峯を葛城山といふはあやまりなり、葛城は金剛山の峯なり、高間山あり云〻(うんうん)かいなが嶽は即ち戒那山(かいなざん)にて葛城山の中腹なり。
水越嶺とはこの間に在りて、大和河内の往來(おうらい)なり、楠正成はこ〻より吉野殿へゆきたりと云ふ。

大和名勝052_01大和名勝103_01

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