水論による人的往来の制限

一時、金剛山の麓である奈良県の御所市に住んでいたことがあるのですが、そのとき、住民の行動圏について、葛城山から金剛山にかけての山を超えて大阪に行くという動きが殆ど無く、主に大和高田市や橿原市の方向へ向かう頻度が多いように感じていました。

水越峠があるといっても、水越トンネルが完成する以前は、曲がりくねった細い道路での峠越えになるため、自然とこの地域での主要都市である、大和高田市や橿原市に人々が集まるのだろうという思いでいたのですが、越川をめぐる水争いの歴史を知ると、この事件の影響が、現代人の精神の奥深くに受け継がれているのかもしれませんね。

それを裏付けるような記述が金剛山記に見られます。

金剛山記より

第3-9図(写真)は、「千早赤阪村誌」により、宗旨改帳簿の資料を元に、近背の通婚圏を東阪村と水分村についてまとめたものである。両村落の村外からの婚姻による流入者は、東阪村が37名で、家数に対する割合は約43%、水分村では家数88に対して45軒が他村から嫁や婿を取っており、その割合は約51%に達する。

この両村は、東阪村が五条への街道筋に、水分村が水越峠への街道筋に立地しており、峠交通の発展と行った背景を基に峠を越えて通婚圏が大和側へも広がっていることが予想される。しかし、その結果は、東阪村においてはその街道に沿って通婚圏の広がりをみせるが、水分村のそれは相対的に街道に沿った拡大がみられなかった。すなわち、東阪村においては、現五條市に位置する近内、岡、釜窪からの婚姻流入がみられ、その割合は他村流入者の約18%を占める。また、大和高市郡の曽我、さらには紀州恋濃に至るまで通婚圏の広がりがみられ、その割合は全体の約16%に達する。これに対して水分村の通婚圏は街道に沿って大和側からの流入は稀で、わずか2名に留まっている、これは割合にすると約4%にすぎず、東阪村の場合とは大きな違いがあることがわかる。

このような相違は、東阪村の場合にはなんの障害もなく街道によって結ばれた大和側との通婚が、ごく日常的なものとして行われたのに対し、水分村においては、先述のような水論によって生じた精神的空間構造の存在により、自然な形での結びつきが定着できなかったことによるものではないかと考えられる。

道は、ただ物質が運搬され人々が移動するためにだけ重要なものではない。農村地域における経済的発展は、それまでの自給自足的社会を打破し、人々の交流が盛んになればなるほど地域的なレベルでの結びつきが強化される。そして、それは峠交通といった唯一の交通路を集中的に利用する地域周辺においては、より鮮明に表れるものと考えられる。山地を隔てて相異なった地域に属しつつ同質的な文化が存在することの所以であるが、水越峠においては、水論という別の形での強力なインパクトが作用して、別の意味で対立の中の同一空間とも呼ぶべき精神的空間構造が形成されていたのである。

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