越口から分流の理由

水越峠からダイトレ(林道)を金剛山に向けて歩いて行くと、越口という所で、大阪側に流れていた沢の水を一部、奈良県側に分流しているのが見えます。

写真:越口 ※昼間の写真がありませんので、夜の写真を掲載します。

この地域の歴史を知らなかった頃は、上手いこと考えたものだと思っていましたが、実はそうではなく、水を巡る争いの現場だったわけですね。

葛城神社社務所史跡金剛山奉賛会発行の「金剛山記」に詳しく書かれていましたので、こちらに抜粋して転載します。なを、本を見ながら手入力しましたので、誤字脱字があればご指摘ください。

以下、本文。

水越川をめぐる水論

当時の大和側の水越川の上流は、今日の水越峠の手前で南側の小河谷にたっし、その小谷の南端が水源であり、底には金剛山頂から直線距離でもなお2kmほど手前であった。その2kmの部分には幅1kmほどの谷が存在し、この谷の降水は水越川の先端をかすめるように北西流し、河内側から伸びる水越川(東条川)へ流下していた。この金剛山頂の約二平方kmの流域は、標高600m以上の部分に広がり、年降水量2,000mmとすると、年間約400万トンの降水量となり、重要な水源ということになる。

そこで先行的にこの水源に注目した大和側の農民は、河内側へ流下する河内側の水越川(東条川)の水を、大和側の水越側の水源地部分へ越口で流入させるように手を加え、灌漑用水を確保し、さらに葛城山の南斜面を水越峠へ流下する万治ヶ滝の小河谷の水も水越峠を越えて大和側へ流入させた。

(中略)田植期に降水不足で水不足になると、この関心は一気に高まることになり、河内側は河内川の水越側(東条川)の水源が大和側へカットされている事実に意義を唱えるようになった。しかも、当時、金剛山から葛城山に至る国境も定かではなかった。

それゆえ。元禄期に入ると、水の流をカットした井手の部分が攻防の的となり、国境改めの検討が始まり、両国の山麓の村々はそれぞれ有利な国境設定案を唱え、高取藩植村家の調停レベルから、京都町奉行の手へ持ち込まれるほどもつれることになった。

(中略)元禄14年(1701)、田植期にはいった5月6日の朝、河内側は万治ヶ滝と越口の水を河内側へ切り落とし、さらに、同月8日には千人余りの河内側の農民が本結の髪に白紙をつけておしかけ、両方の切り口を確保した。これに驚いた大和側の多くの農民が参集したが、河内側を押し返すことはできず、庄屋高橋佐助などを指導者として、京都奉行所へ出訴し、もっぱら中央での調停工作に中心を置く戦術をとった。

舞台は調停の場に持ち込まれ、河内側は金剛山から葛城山へ至る自然的境界こそ国境にすべきことを土絵図を作製主張し、大和側は水越峠を西へ越した鎌取石で、大阪冬の陣の時の大和側が兵糧運搬をチェックしたことから、そこが両国の国境であると主張した。いずれも水源地を取り込むための主張であった。

御検使役が現場検証をし、12月21日に裁許が言い渡された。敗訴を漏れ知った河内側は欠席のままであった。

(中略)この決定は、国境については両者の主張を中間的な形で妥協させ、水越峠を国境としたが、金剛山頂から前述の河内側水越川(東条川)の上流部一体を大和側に属するものとしたほか、水利権については、大和側の旧来の水利の事実を認める形で、大和側の言い分を全面的に認めることになった。こうして、まさに「水越峠」が確定したのである。

結果的には、近世に入って河内側の金剛山六の村々の急速な開田化の動きが、それ以前から行われていた大和側による水越の流水取得に意義を唱えたが、結局、それまでの慣行が承認される形となった。その背景には、そのような慣行をふまえた大和側の実績と、基本的な水不足の認識をふまえた高橋佐助などのすぐれた指導者の存在が大きな役割を果たしたものと思われる。

なを、同じ事態が明治に入って再現しそうになったが、この時もそれまでの慣行が尊重されている。このような水利慣行は明治民法で裏付けられ、今日まで継承されている。これにより、吐田郷を中心とした村々は、比較的安定した水利条件を確保し、この地域では代表的な米作地として知られることになり、大阪の米市場とも結びつき、その中心集落である名柄は水越峠を利用して大阪側へ顔を向ける面も多かった。安定した水利と水越峠が、大阪経済圏をこの地域まで拡大することになったのは皮肉なことであったといえようか。

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越口から分流の理由」への2件のフィードバック

  1. 越口は僕も気になっていました。
    こんなにうまくまとめてくれていた参考文献があったのですね。
    経済史的な話に関連づけられる最後の2文も秀逸です。

    些末な話になるかもしれませんが、
    大和側に下ろうとも河内側に下ろうとも「水越川」なのですね。
    まぁ名前が同じだけで別物の川なのですが…。
    でも、さらに流下していけば、結局のところどちらの川も
    やがては大和川に合流し、
    あびこの南端を流れて大阪湾に注ぐわけです。
    あびこと金剛山をムリヤリ結びつけて何か書くとすれば、
    こんな感じでしょうかね。ちょっとムリがあったかなw

  2. 灌漑施設の充実で水利状況がよくなったり、そもそも、減反で水田そのものが減少している現代の目でこの越口の分流を見ると、素直に人間の知恵と感じられますが、大昔であれば、水の流れる方向が下流域の経済に大きく影響していたわけで、争いにもなるのも頷けます。

    元禄期に水の流れを変えたときに、現在のように沢の流水の一部を奈良側に導入したのか、はたまた、沢の流れ全部を奈良側に付け替えたのかが不明です。

    >金剛山頂から前述の河内側水越川(東条川)の上流部一体を大和側に属するものとしたほか、水利権については、大和側の旧来の水利の事実を認める形で、大和側の言い分を全面的に認めることになった。

    とあるので、沢の流れ全部を奈良側に付け替えたように読めます。もしそうであれば、近代に水の流れを現在のように付け替えたのかという疑問が残ります。

    また、この越口の水の他に、ダイトレを葛城山に登り始めてすぐ出会す水の流も、奈良側に付け替えられているので、奈良側の水を求める切実さがわかります。こうしたことから、水越峠はまさに字のごとく、人間の知恵で水が峠を越えているわけで、
    >こうして、まさに「水越峠」が確定したのである。
    とある表現は、秀逸と言えます。

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